和泉流の祖として伝えられるのは、近江の坂本(現在の大津市)の隠士・岳楽軒と言う人で、神道、歌道に通じ、特に狂言に優れていたと言われます。この江州坂本は、日吉座をはじめとする近江猿楽の中心地であり、大蔵流でも流祖・玄恵法印の跡に日吉姓を名乗る6代が続き、その内の4代までが『近江国坂本住人』と記されています。つまり坂本は伝説上でも狂言の盛んだった地であり、和泉流の場合もこの坂本を発祥の地としているものです。

この岳楽軒は将軍義政時代の人と言いますから、1450~70年頃に活躍したものでしょう。2代目はこの岳楽軒の甥で、『狂言を岳楽軒より伝授して上手なり。京都に在し、中国、其他諸国に名を得、老後坂本に帰り一葉軒と称す』(名古屋市史・風俗編)とあって、その活躍地は京都に移ることとなります。
 
一葉軒には二人の弟子がありました。一人は甥の鳥飼五郎左衛門元純、もう一人が日吉満五郎超運です。五郎左衛門は禁中で「花子」を勤めるなどの活躍があったと言いますが、不幸にして早世、跡を継いだ実子・鳥飼和泉元光は、その芸を多く日吉満五郎に学びました。次第に名声を得、和泉守、石見守などに任ぜられ、やがて叔父の姓をとって山脇と改めます。その子が山脇五郎左衛門源助、則ち後に初代山脇和泉元宜です。
 
日吉満五郎は金春満五郎とも言い、狂言史の上では、大蔵、鷺、和泉三流のいずれの系図にも登場する伝説的な人物です。満五郎の弟子に大蔵弥右衛門があり(四座役者目録)、満五郎の甥が宇治源右衛門、その弟子に鷺仁右衛門、三之丞があったとされます(童子草)。つまり三流とも芸系を遡るとき、いずれも満五郎の所で一つになってしまうのです。結局満五郎以前については、系図上では遡れるとしても、各流とも流儀形成以前の時代と言うべきかもしれません。
 
「鳥飼」姓については、摂津の「鳥飼座」との関連も十分考えられます。鳥飼は現在の大阪府茨木市に地名も遺しており、ここを中心として活動していた猿楽の一座で、後に大和四座などの隆盛に押されて消滅、座員は流浪し、他の有力座にスカウトされたり、あるいは京都などへ出て宮中や公家に出入りして芸を売り込む「手猿楽」の道をたどることとなります。和泉流も鳥飼姓を名乗ることや、京都を活躍の場として古く「京流」と呼ばれたことなどからも、こうした流れを汲むものだったのかもしれません。