名古屋の狂言は、京都で活躍していた手猿楽狂言師、山脇五郎左衛門源助(元宜)が、慶長19年(1614)に、尾張藩祖徳川義直に抱えられたことに始まります。これは尾張藩が抱えた最初のお役者でした。つまり能役者としては狂言師が真っ先に抱えられたわけで、異例と言ってもよく、さらに切米100石、扶持方8人分を受け、将来的には知行を下さる(これは実現しなかった)との話もあったと言いますから、大変な厚遇だったと言うべきでしょう。
 当時お役者としての勤めは殆どない状態でしたが、源助は常に藩主のお側近くに仕え、夜もしばしば話相手として伺候していたと言い、この年に起こった大坂冬の陣にも源助は義直の供をしています。さらに翌元和元年(1615)には、何なりとも願い事があらば申せとの藩主の御意により、源助は自分ひとりではお役が勤められぬからと願い出て、京都の手猿楽時代の弟子5名をそれぞれ50石、5人扶持で召し抱えに成功しています。しかしながらこれは能太夫として金春八左衛門が抱えられる以前であり、いくらなんでも狂言師ばかり大勢抱えるのは無理があったものでしょう。間もなく5名ともに暇を出されており、その後寛永年間になって再び召し抱えの話が出ますが、すでに死亡したり他藩に出仕したりしていて、結局残っていた佐々藤左衛門(後の山脇藤左衛門家)だけが以前と同条件で抱えられています。
 義直は慶長12年(1607)、7歳で尾張に封ぜられており、源助が抱えられた当時、未だ14歳の幼君でした。源助の年齢は不明ですが、寛永20年(1643)にいったん家督を譲って隠居、その後2代目和泉元永が早世したため再度出仕、最初の隠居から10年後の承応2年(1653)に再び隠居し、万治2年(1659)に没しています。最初の隠居を仮に60歳とするなら、没年は76歳、抱えられた時は31歳となります。幼くして藩主の座に付いた義直が居並ぶ歴臣とは別に、お役者として抱えた狂言師に格別の親近感を覚えていたのかも知れません。ともあれ一介の狂言師源助が、まさに破格の待遇、寵愛を受けていたことが偲ばれます。
 その後元和3年(1617)に能太夫として金春八左衛門が、さらに寛永6年(1629)に至って笛方の藤田流初代藤田清兵衛が抱えられ、尾張藩の能楽も順次整備されることとなります。