「やるまいぞ、やるまいぞ」

「ゆるさせられい、ゆるさせられい」

追いかける主人も、逃げ回る太郎冠者も、まるでゲームを楽しんでいるように見えて来ませんか。こんな光景は日常茶飯事なのでしょう。明日になれば何事もなかったように主従の普段の生活が続けられ、「やるまいぞ」もまた繰り返されるに違いありません。

狂言はもともと芝居なのです。それも普通の人々の、普段の生活の中の、どこにでもありそうな小さな出来事を、「笑い」の鏡に写し出した芝居なのです。中世社会をたくましく生き抜く庶民たちの、笑い渦巻く日常生活へご案内しましょう。

狂言には大名や太郎冠者のほかにもありとあらゆる人々が登場します。百姓、商人、職人、賄賂を受け取る役人、お布施の額に一喜一憂する僧侶、威張り散らす山伏、祭りの稽古に集まる町衆、初々しい花聟、聟と舅の水争い、ぐうたら亭主とわわしい女、百歳を超えた祖父も近所の若い娘に恋わずらいです。人間ばかりではありません。犬、猿、馬、牛、狐、狸、いずれも人間社会と最も馴染み深い動物ばかり。さらに大名と相撲を取る蚊の精、山伏の耳を挟みつける蟹の精。神仏だって負けてはいません。天から落ちて腰を打った雷、人妻に懸想して泣き出す鬼、勝負に負けて亡者を極楽へ送り届ける閻魔王、登場するなり神酒を請求する福の神など、人間社会に係わる新羅万象すべてが生き生きとした姿で登場して来ます。まるで中世社会のおもちゃ箱をひっくり返したような賑やかさです。

600年の時代を生き抜いた狂言は、背景も道具も何の飾りもない小さな空間を、単純な筋立て、力強い発声と明快な演技、独特のテンポと絶妙の間でもって、無限の世界に創り代え、時代を超えた庶民の心を、生活感覚を、我々に語りかけてくれます。

名古屋の地に根を下ろし、この地で育まれた和泉流狂言は、多くの人に愛され、多くの人の努力で今日に伝えられ、今も盛んに行われています。