山脇和泉家を始めとする尾張藩お抱えの和泉流の名家は、いずれも幕末まで名古屋の狂言をしっかりと支えてきました。しかしながら維新によって彼等の受けた打撃がいかに手ひどいものだったかは、想像に難くないでしょう。
 嘉永3年(1850)に家督を相続した8代山脇和泉元賀は、間もなく明治維新の動乱を迎えることとなります。この時、元賀はすでに56歳、息子元清は20歳。代々住み慣れた御姫様屋敷跡の尾張藩からの賜邸も退転せざるを得なかったのでしょう。明治9年元賀が64歳で没したのは上笹島町、11年に元清の長女が同所で生まれますが、13年に次女が誕生した時は隅田町でした。おそらく借家住まいで転々としたものでしょう。同13年元清の母おてい(3代目早川幸八の娘)がこの隅田町の家で没すると、元清は翌14年2月に名古屋を離れて上京してしまいます。
 山脇藤左衛門家は9代得平の代でした。明治11年得平が42歳で没すると、その子録弥は跡を継がず、やがて廃業してしまいます。
 早川家は4代幸八。幸八は享和2年(1802)生まれ、67歳で維新を迎えます。宗家元賀より10歳の年長、しかも義理の兄に当たる立場にありました。明治10年に没。娘ばかりで男子がなく、これも絶家となってしまいます。
 こうして旧藩以来の狂言の名家が次々と絶え、宗家までが東京へ移住すると、名古屋の狂言界は一時に灯の消えたごとくの有様となってしまいます。残されたのは弟子ばかりでした。
 即ち山脇得平門下の田中庄太郎・角淵新太郎(宣)、早川幸八門下の井上菊次郎・伊勢門水、野村又三郎門下の河村鍵三郎・山本久平等の人々です。もはや彼等には家も派もない、流派を超え、協力しあって名古屋狂言界を再建する以外に道はなかったのです。
 明治16年3月、井上菊次郎と角淵宣に対し、元清上京後の名古屋一円芸道取り締まり役が申し渡されています。又三郎弟子であった河村鍵三郎は、その前年明治15年に師家より弟子取り立てを許可されていますが、当時鍵三郎20歳、この時は未熟・若輩として辞退していますが、その力量は早くから認められていたものでしょう。その後明治40年に又三郎信茂が没した時、此の免状と遺品が届けられ、改めてこれを受諾したと言います。