明治17年3月9日、16日の両日にわたって、8代山脇和泉元賀・4世早川幸八・9世山脇得平の物故三師追悼会が上園町古春舞台にて下記のごとく開催されました。
初 日(3月9日) 後 日(3月16日)
玉の井 木下敬賢 西村大蔵 俊 寛 古春左衛門 大河内助太郎
唐人相撲 田中庄太郎 瓢 神 田中全三郎
猿座頭 山本久平 木六駄 山本久平
無布施経 三橋正太郎 子盗人 角淵新太郎
鎌 腹 井上菊次郎 仁 王 田中庄太郎
蝉 丸 古春左衛門 大河内助太郎 葵 上 木下敬賢 加藤十郎
狸腹鼓 角淵新太郎 釣 狐 井上菊次郎
棒 縛 磯部三段治 苞山伏 磯部三段治
六人僧 田中全三郎 業平餅 伊勢門水
舎 利 寺田左門治 味岡福蔵 寺田左門治 西村大蔵
 元清が名古屋の地を去って、初めて元賀を含めた物故三師の追善を自らの手で開くことが出来たのです。菊次郎は「釣狐」を、角淵は「狸腹鼓」を演じて手向けとしました。
 二日間にわたり大曲、秘曲を含めて狂言14番を揃えたこの催しをやり遂げたことは、彼等にとって大きな自信となったことでしょう。同年6月にはこれを記念して「『和泉流猿楽』狂言記念碑」と題する石碑が当時名古屋西本願寺別院に建立されました。(現在は昭和区の八事山興正寺に移設)表面には名古屋和泉流狂言の伝統とその現状を憂い、弟子たちが三師の追悼会を催したことを刻し、裏面には以下の16名の名を刻しています。上記番組ではシテの名しか判明しませんが、この石碑に刻された人々は何らかの形で出勤したものと思われます。
角淵  宣   三橋正太郎
井上菊次郎   井上光太郎
田中庄太郎   山本  輔
山本 政守   菱田 鐸造
磯部三段治   稲葉 権一
河村鍵三郎   稲葉千万吉
伊勢 門水   浅井 鉞夫
田中全三郎   浅井  恵
 この追悼会の開催が、名古屋狂言界の大同団結をはかる大きな機運となります。かれらは協力しあい、ようやく維新の動乱後の落ち着きを取り戻し、復活し始めていた名古屋能楽界の活動に積極的に参加して行きます。この機運はやがて組織的活動をうながす方向へと高められ、明治24年の「狂言共同社」結成へと実を結ぶこととなったのです。