6代和泉元貞と7代和泉元業の時代は、流儀宗家としてのさまざまな活躍がうかがわれ、流儀の確立、和泉流狂言の完成期、ともいうべき時代でしょう。 元貞は5代和泉元喬の甥で、実は学者として著名な木全藤左衛門の三男を養子としています。特に名人と評された存在ですが、芸の上のみならず、本居宣長に従学して鈴屋門人に名を連ね、和歌を詠み、狂言語彙の訓古注釈、詞章の改訂などを精力的に行っているようです。
 7代元業は町医服部松斎の弟、寛政4年(1792)11歳で山脇家の養子となり、修行に入ります。元貞の教えをよく守り、若いころからその教え、心覚えなどを『聞書』として丹念に記録、その内の数冊が現存します。元貞が文化13年(1816)に没すると、家督を相続した元業は、この『聞書』などをもとにしながら、やがて『雲形本・正編』20冊(200番)、同じく『雲形本・別編』3冊(50番)の作成にとりかかっています。これは古来からの伝書を参考にしながら、型付けや装束付けなど詳細に記し、漢字にはすべてその読みをふりがなで施し、さらに古くからの演出や、心覚えなども詳細に注記した、最も完備した狂言台本です。文政10年(1827)ころまでには完成したと思われ、翌年から2年かけて、この『雲形本』所収の250番の科白だけを清書して書き抜いた『雲形本・大本』17冊を書写しています。いずれも表紙を雲形の模様の紙で装丁されていることから、この系統の六儀を『雲形本』と呼んでいます。
 和泉流では狂言台本のことを『六儀』と呼び慣わしていますが、『六議』『六義』などとさまざまに表記されます。『古今集』の序で述べられる『和歌六儀』になぞらえたもので、それだけ重要視し、大切に扱う考え方から来ているものです。
 現在みなさんにご覧いただいている狂言共同社の舞台は、この『雲形本』による詞章、演出で行われています。