源助は寛永8年(1631)に禁裏御所にて「花子」を勤め、和泉守の口宣案(和泉守の任官証書)を頂戴しています。この口宣案の日付は11月4日となっていますが、『資勝卿記』によればこの年山脇五郎左衛門(源助)が石見守の受領号を受けた記事が見え、さらに『資勝卿記』寛永14年の記事には、同人が石見守を和泉守に改名したいと願い出ていることが記されています。つまり最初は「石見守」を拝領したのですが、尾張藩の家中にすでに石見守を名乗るものがあったらしく、差し合いが生じたものでしょう。あらためて願い出て、先の口宣案を「和泉守」に書き改めてもらったようです。以後代々山脇和泉を名乗り、これが後に和泉流の呼称のもととなりました。山脇和泉家はこの後尾張藩の疵後を受けながら、他方で京都手猿楽の雄・三宅藤九郎、および野村又三郎をその傘下に組み込むことに成功し、次第に大蔵、鷺の両流に互して一流を建てて行くこととなります。
 しかしながら江戸時代を通じて「和泉流」の名称は必ずしも固定したとは言い難く、徳川美術館蔵の狂言画帳には『山脇流狂言図』と記され、また天保7年(1836)に7代和泉元業によって建立された石碑は『狂言太夫山脇和泉家流伝統之碑』と刻されています。文献上にも「わが家にては」「和泉にては」などの記述が多く、流儀の名称を記述する意識はあまり見受けられません。「和泉流」の名称が固定して用いられるようになるのは、多分明治にに入ってからと思われます。