佐藤卯三郎
佐藤 卯三郎(さとう うさぶろう)
明治24年11月13日、八代目佐藤与市守正の長男として水主町に生まれる。
佐藤家は美濃兼山出身、江戸時代半ばにはすでに名古屋にあって、尾張徳川家の御用商人として材木商を営み、名字帯刀を許された名家であった。また生誕の明治24年は奇しくも狂言共同社が結成された年に当たっており、文字通り共同社とともに生きた人だった。
父の八代目与市も狂言を嗜んでいたらしく、残存する番組には明治23年頃に、「福之神」、「鞍馬参」などを勤めた記録がのこる。
卯三郎は幼少より河村鍵三郎および野村又三郎信英に指事。明治30年(5歳)に「口真似」のシテにて初舞台。以降明治、大正、昭和の三代にわたって数多くの舞台をつとめた。
ともかくお洒落でダンディな老紳士、そして何より元気な人だった。喜寿を過ぎてから『「釣狐」をもう一度演りたい』と言い出されて、社中一同大いに紛糾した。若手でさえ過酷な体力負荷を強いられる。もしものことがあっては、と慎重論が大勢を占め、その年は結局「花子」を演じられた。さらにその翌年も「釣狐」と言われて皆で説得、この年の狂言会では「木六駄」を勤める結果となった。いずれも狂言屈指の大曲であり、社中揃って「釣狐」を思い止まらせん為の選曲だった。ところが年があらたまるとまたしても「釣狐」と言い出され、ついに一同根負け。昭和46年10月『共同社結成八十年記念・和泉会』で念願(執念?)の「釣狐」を無事演じ、当時80歳の「釣狐」として大きな話題となった。
その後もかくしゃくとして舞台を勤め、佐藤融が生まれた直後から「とおる君が猿をやる時にはわしが大名をやったるでな」と先行予約、昭和50年の朝日狂言会でその約束を果たし、翌年1月に稽古先で倒れ、同月19日永眠。
享年84歳。
現共同社同人の、佐藤友彦・融とは縁戚関係にあらず。