河村 丘造

河村 丘造(かわむら きゅうぞう)

 本名・武七。

  明治28年6月23日、河村鍵三郎五男として生まれる。河村家は代々中区宝町に住み、「万武」の屋号を持つ酒造業だった。父の鍵三郎(本名武七)は野村又三郎信茂の高弟で、共同社結成時の中心メンバーの一人だった。多くの弟子の育成に勤め、その門から河村保之助、佐藤卯三郎、桜山壮次、佐藤秀雄らが育った。
丘造も幼時より舞台を勤め、河村家は井上家とともに以降の共同社を支える中心となった。明治34年(5歳)に「痺り」のシテで初舞台。以降明治、大正、昭和の三代にわたって数多くの舞台をつとめた。
丘造は、かつての共同社のおだやかで上品な芸風を伝えた最後の人だった。父の鍵三郎は厳格で、指導も大変厳しかったと言う。酒造業を廃してからは、自宅敷地内に借家を建て、それで生活していた。丘造も一時勤めに出るが、鍵三郎が病に伏してからは勤めもやめ、看病と家事に努めた。丘造師の怒った顔を見た人は少ないのではなかろうか。父鍵三郎があまりに厳格な人であったため、自分は子どもにも、弟子にも努めて優しく接するようにしたのだと言う。それがそのまま芸にも表れたものであろう。信仰心厚く寺の檀家としても重きをなし、信者らからの悩み・相談に応ずることも多かった。ともあれ人格者として、多くの人に慕われる存在だった。
昭和40年代後半頃から体調を崩し、舞台からは遠のくこととなったが、その後も共同社長老・重鎮として重きをなし、昭和53年には能楽協会より、能楽功労者表彰を受ける。

昭和54年3月永眠。享年83歳。