田中庄太郎
田中庄太郎(たなか しょうたろう)
共同社結成時に参加しているが、詳細は不明である。角淵と同じく山脇得平の門下と推測され、井上菊次郎とともに明治初期より最も舞台での活躍ぶりがうかがわれる一人である。
明治2年4月に早川舞台で行われた狂言会では「釣針」のシテを始め1日9番に出演した記録が遺っている。ワキ方の故西村弘敬氏によれば、身体の大きな人でそのわりに身が軽く、色んな動きの出来た人だったと言う。
明治6年4月に大野舞台で行われた催能で「唐人相撲」のシテを勤めていることからも、すでにかなりのベテランだったと思われる。共同社結成の頃まで旺盛な舞台活動が見られるが、明治24年の共同社設立以降ほとんど見られなくなり、明治28年4月28日博物館舞台披きに「花折」を勤めたのが最後の記録となっている。