外堀新太郎(角淵 宣)

角淵  宣(つのぶち せん)

【生没年】1847年2月25日生~1939年2月16日没

幼名・新太郎。

旧尾張藩士で、西区南外堀町に住居があったことから、外堀新太郎とも号した。本職は弁護士で、同制度発足時の最初の弁護士でもあった。また名古屋市の市政発足時には第1期の市会議員も務め、後に名古屋市から市政功労者として表彰を受けている。

狂言は幼少より山脇得平(山脇藤左衛門家9世)に師事。慶応元年に18歳で「三番叟」を披く。明治11年に得平没後は得平門下の中心として芸事を相続。明治41年には宗家から山脇藤左衛門名義の相続を正式に許されるが、ついに名乗らなかった。

学識者・人格者としても人望厚く、共同社結成後はその中心として活躍した。小細工のない格調高い芸風で、脇狂言の果報者や大名狂言などが得意だった。研究熱心で、稀曲・難曲にもとりくみ、仕舞狂言なども好んで演じた。四拍子に堪能で、ワキ方高安流の謡を皆伝、指導もしていたと言う。大正11年3月、観世清廉追善会で「鶯」を演じたのが最後の舞台となったが、その後も重鎮として重きをなした。

昭和14年没、享年92歳。

主な上演記録

慶応1(1865) 「三番叟」
明治3(1870) 「釣狐」
4(1871) 「麻生」(大野舞台での催能)
8(1875) 「楽阿弥」(早川舞台での催能)
9(1876) 「花子」
12(1879) 「瓢神」(早川幸八追善)
16(1883) 「金岡」(寺田左門治追善)
17(1884) 「狸腹鼓」(物故三師追善)
17(1884) 「酒講式」(保能会)
18(1885) 「木六駄」(保能会)
36(1903) 「唐人子宝」(那古野神社催能)
36(1903) 「唐人相撲」(徳川邸)
41(1908) 「松脂」(角淵還暦祝賀)
大正6(1917) 「泣尼」(吉田方條追善)
7(1918) 「枕物狂」(鬼頭八郎追善)
8(1919) 「業平餅」(伊勢門水還暦祝賀)