河村鍵三郎

河村鍵三郎(かわむら かぎさぶろう)

【生没年】1863年11月1日生~1940年4月24日没

本名:河村武七。

 家は「萬武」の屋号を持ち代々の酒造業を営んでいた。狂言は明治2年に6歳で9世野村又三郎信茂に入門。明治4年早川舞台で又三郎催しの狂言会に「鼻取相撲」のシテを演じて初舞台を勤める。以後明治12年「三番叟」(16歳)、27年「釣狐」(32歳)、33年「花子」(38歳)を披く。又三郎家は大阪住まいのため、入門する商家の子弟を託され代稽古を勤め、明治15年正式に弟子取り立てを許されるが、固く辞してあくまで代稽古としていた。明治40年又三郎没後に10世又三郎信英が遺品とこの時の免状を持って河村家を訪れたため、ついにこれを受けたと言う。

 家業は盛期には長者番付にも掲載されるほどであったが、次第に思わしくなくなりつつあった。このため明治38年には宮町での家業を廃し東区宝町(現在の栄町テレビ塔の辺り)に転居、道路で囲まれた四方に白壁を巡らし、四隅に土蔵の建つ方一町の広大な屋敷を構え、もっぱら好きな狂言三昧の生活に明け暮れた。土蔵の一つを狂言専用とし、社中の装束・道具類もすべてここで管理した。又三郎家にとっては名古屋の高弟であるとともに、パトロン的な存在でもあったようである。松坂屋の伊藤家を始め商家の子弟を多く教えることとなり、名古屋はことに子ども狂言が盛んに行われる土壌が培われた。

 当時の共同社は角淵、井上、伊勢、河村の4巨頭が鼎立し、シテ方よりも鼻息荒い状況だった。気に入らぬ、筋が通らぬなどと出演を嫌がったり、役割などでもめることも多く、狂言方だけいつまでも役割が決まらず困ったようだが、結局鍵三郎のところで落ち着くことが多かったと言う。四師それぞれ一国一城の主のような存在だったが、その実一番歳の若い鍵三郎がとりまとめていたようだ。社中の書記、会計、さらには装束道具類の管理・運用まですべて引き受ける実直な人柄が信頼され、一目おかれていたものだろう。

 鍵三郎の稽古は厳しかったと言う。これと見込んだものにはどなりつけ、ぶちのめしてまで稽古をつけた。その門から分家の河村保之助、野崎達之丞、桜山荘次、佐藤卯三郎などが育って行く。また佐藤秀男も当初は井上鉄次郎の下に入門するが、後には河村家に近いこともあって自然河村家の弟子的存在となって行き、後には河村家は井上家と並んで共同社を支える家となるのである。

 鍵三郎の芸風は軽妙さを感じさせるよりも、むしろ固い芸風だったと言う。やはり人柄によるものであろうか。あくまで忠実に演じ通すと言う風で、「大藤内」を演じても門水は実に間の抜けた大藤内を味のあるその人柄で表し、鍵三郎は怖くていまにも卒倒せんばかりの大藤内をその演技で見せた。師の好んで演じたのは「無布施経」で、これは非常に枯れた軽妙な味を出されたと言う。

 昭和5年、名古屋市公会堂のこけら落としに「福之神」を演じたのを最後に、健康上の都合で舞台を引退した後も、永く重鎮として名古屋狂言界に重きをなした。

昭和15年4月24日没。享年78歳。