初世 井上菊次郎

初世井上菊次郎(いのうえ きくじろう)

【生没年】1846年9月15日生~1920年9月21日没

本名:井上重兵衛。

家業は「播磨屋」の屋号を持つ仏具商。元禄年間から続く家で、当主は代々重兵衛を名乗る。元来仏師だったと言うが、明治23年より仏具商を営むようになった。

狂言は幼少より4世早川幸八に入門。嘉永6年に8歳にして尾州家城内で舞台を勤めている。明治維新当時から田中庄太郎(山脇得平門)と並んで最も舞台で活躍しており、当時の16世宗家山脇元賀(8代和泉)の相手も菊次郎がしばしば勤めている。

8人の男子に恵まれ、そのいずれも「靱猿」の小猿で舞台に立ち、以後名古屋狂言界でも井上家は中心的役割を担うこととなる。明治41年には宗家より早川幸八名義の相続を許されている。菊次郎は晩年、家業を息子たちに譲り単身上京し舞台活動に専心、中央でも名人と名声を博することとなる。

『飯田町喜多舞台で「和泉流後援会」といふ狂言づくしの会を例月に催してゐた。名古屋の名手で、井上菊次郎を見たのは、此の時一回である。私は後にも先にも、あんなに品よく枯れた狂言を見たことがない。あれは狂言の最奥を見せた人ではなかったかと思ふ。大正七、八年のことであった。』(松野奏風「私の思い出」)

『狂言は名古屋の井上菊次郎氏が「空腕」を演つた。背中を打たれてコロリと気絶する所など、思はず嘆声を発せしむる程の鮮かさだつた。帰つてからの手柄話も騒々しくなくて仰々しい。偉いものだと思った。(中略)それにしても東京の和泉流綺羅星の如き中に井上老人の禿頭が現れると、忽ち月が出た様になるのは妙である。諸星も其光を加ふる工夫が肝要であろう。京都に両茂山氏ありて大蔵流の重きをなし、名古屋に井上氏ありて和泉流の頭目たりでは東京狂言界の振るはざる亦甚だしいかな』(坂元雪鳥:朝日新聞・能評 大正2.11.8)

明治末年頃からしばしば上京して演じていたようだが、本格的に東京へ移住したのは大正4年ごろである。東京での活躍はわずかの期間だったが、名声は高く、天覧能の晴れ舞台にも出勤、『天皇陛下の前で寝ころんだのは、俺ぐらいのものだ。』(寝音曲)と言うのが自慢だった。不治の病(胃ガン)に侵され惜しまれて大正8年には帰郷することとなったが、死亡通知の宛名を生前に自身で書き記し、泰然として死期を待ち、見舞客には喜んで面会し、謡を聴き、歌を歌わすなどして少しも悲嘆の状を見せず、大往生を遂げたと言う。

大正9年没、享年75歳。

 

≪辞世の一首≫
「面白く 謡いつ舞いつ狂がりて もうかふまいる さらばさらばと・・・」